タイラント日記

映画や小説について書きたくなった時だけ書きます

絶えたのは歌ではなく望みだった:【絶歌】

あれからもう20年近い年月が流れたのか…。唐突に出版された【絶歌】で一気にあの時代に引き戻された気がした。その騒動は収まるどころか日に日に拡大している。そして今もなお論争の渦中であり、沈静化する気配は一切みせていない。メディアでも、SNSでも、そして現実でも僕らの間でこの話題は加熱している。刑期を終えたことを贖罪を終えたとして扱うべきなのか、元受刑者の創作意欲は罪なのか等と、それぞれの方向からの論争も激しさを増しているが、やはり最大の焦点は「実在の犯罪者が犯した罪とその行為そのものを題材として金を稼ぐことの是非」だと思う。

 

人を殺した人間がその事件や行為そのものを題材にして本を出版する。僕はこの一点に対してだけ確実にNOを突きつけたい。1%の曇りもなく純度100%なNOだ。元犯罪に手を染めていた人間が、その後に経験を元にしてフィクション小説を書く行為とは似て非なるものだ。ここで贖罪の有無は問題ではない。行為の好き嫌いの問題でもない。僕は殺人を犯した当事者がその犯罪を主観で語り金を稼ぐことを否定しているのだ。いくら編集者の存在があったとしても、当事者が「こう思いました」と主張したならば、どこに他者の意見が入りこむ余地があるというのか。殺人を犯した人間が、その犯罪自体を装飾するなんて嫌悪感以外のなにも感じない。自己保身、自己正当化、自己弁護、責任放棄に責任転嫁。どれも思うがままだ。学術的観点から出版の意義はある? 学術的観点が必要ならば裁判記録を読めば事足りるだろう。本当に研究が必要なのであれば自分の足で関係各所を尋ねて回るべきじゃないか。本人の心の闇を知るべき? 主に今この本を買っている市井の人々がそれを知って何をどうするというのか。単なる好奇心で読みたいという動機のほうがよほど健全だ。当事者達にとってどれだけ忌まわしく悲惨な事件でも、対岸の火事を眺める僕らにはやはりどこかで他人事だ。ひょっとしたら自分たちにも振りかかるかも〜等というのも事実ではあるが、それを我が身の事として真摯に受け止められる人間がどれだけいるというのか。

 

僕はこう考えている。本を一冊も読んだことがなくても、大量殺人者でも、凡夫でも天才でも、あまねく全ての人が文章を書く資格を持っている。だからこの本の中で綴られた文章に対し、個人的感情を除けば問題は無いし文句をつける気はない。だが重ねて言うが人を殺した人間がその事件や行為そのものを題材にして本を出版することは僕は100%否定する。どんなに下衆な本を売って利益を得ようとも、その出版社の行為を嫌悪はしても否定はしない。ただし【絶歌】という殺人者の体験談と主張を金に変えようとしたことは全力で否定する。そこへ至る経緯からその品性を疑っているが、それはまた個人的で別の話である。

 

とはいえこの本の出版にあたり、出版社からも元少年Aからも遺族への説明はなかった点は常軌を逸していると言っていい。卑怯な奇襲作戦である。たしかに遺族に許可を求めたところで、彼らから許可が出ないことはほぼ分かっていただろう。でも、それでも、彼らは遺族への説明と許可を求める作業を怠るべきではなかった。まずここが大いにひっかかってしまうのだ。礼を尽くし、許可を求め、断られ、それでも出版したということであれば、是非はともかくとして挟持を少しは感じられたのかもしれない。しかし実際には単なる不意打ちだ。後から出版社の社長がメディアで出版の意義だ世の中に問うだといった言い訳を並べていたが、その言葉に一片の価値も無い。本が売れない出版不況の中、(もし彼を新人作家と定義するのであればであるが)名も無き新人作家に対し初版10万部という一点をもってしても、彼らが感じていたのは意義ではなく損得勘定だ。資本主義社会に生きている以上ビジネスを完全に否定する気はない。しかし僕の愛する本の出版に関わる人達が是非善悪の判断が出来ない人達だった、と考えてしまうことが実に心苦しい。正直な話、この不況の中でも【絶歌】は売れるだろう。しかしこの騒動によって「本を読む事自体への嫌悪感」も加速するような気がする。こういう話題の成り方は出版全体から見れば、マイナスになれどプラスにはならない気がする。もはや【絶歌】はただの踏み絵でしかない。

 

最後にこの【絶歌】という本自体の評価はどうなのか、というある意味核心の部分に触れておきたい。こういった批判や議論の対象となった本や映画に対して「見る前読む前から批判を行うのはフェアではない」といった論説をよく読む。この主張に対してそもそも思うところがあるのだが、今回僕は【絶歌】に目を通している。なのである意味今回の僕はフェアであるということになる(笑)。勿論この本が出版されたことに対し、利益を発生させる気などはさらさら無かったので、某中古書店に100円で並ぶまではスルーする予定だったが、なんと普段本を全く読まない友人が発売当日に速攻で買っていた。これにはさすがに苦笑したが、結果として読むことが出来た訳だ。しかし読み進めるにつれ、僕はすぐに本を開いてしまったことすら後悔した。文章力は高いと言えるかもしれない。だが書かれている悍ましい彼の主観が終始どこかで聞いたような表現で修飾されている。剽窃に近いと言ってもいいかもしれない。有り余る時間の中で本をたくさん読んだかもしれない。お気に入りの作家が出来てその影響なのかもしれない。しかしここにあるのは見苦しい駄文だ。美しい言葉でかざられた文章が美しいとは限らない。はっきり言えば読むに耐えない。小説でもなくノンフィクションでもない。これは自己陶酔した男が吐き出した吐瀉物だ。それなのに表面だけは綺麗に飾られてるから、本好きであればあるほど不快になる。感情を逆撫でしてくる。なるほど、そういう意味では大した本だと言えるのかもしれない。そしてあとがきこそある意味この本の真骨頂である。読んだ人間の後悔という感情を最も高まらせてくれる部分だ。僕はつくづくこの本は読むべきでなかったと思った。このあとがきを読んだことで僕は腸が煮えくりかえりそうだった。元少年Aは中年Aに変わっただけで、なんら本質は変わっていない。それがこの本を読んだ僕の最終結論である。

 

ところで奇しくも同時期に窪美澄の同事件を扱ったフィクションが上梓されている。こちらは購入して読ませて頂いたが、もう比べることすらおこがましいほど顕著な差があった。好き嫌いは勿論あるだろう。正直僕も好きか嫌いかで言えば嫌い寄りの著者ではある(笑)。しかし著者の決意であり挟持が充分感じられる作品であった。本来であれば、当事者である元少年A以上にこの事件を語れる人などいないはずだ。にも関わらず、彼女が綴ったこの本は心を抉り、読んだ人に考えさせる力があった。窪美澄は当然元少年Aではないし、おそらく会ったことも無いだろう。だが彼女は裁判記録や取材でこれだけの本を書き上げたのだ。これこそ作家の真髄ではないだろうか。彼女こそ賞賛も批判も受けるに値する「作家」だと思った。もう一度重ねて言うが元少年Aは作家ではない。【絶歌】は賞賛も批判も受けるに値しない、単なる元少年Aの吐瀉物だ。僕はこの本を読みたいと思うことも、実際に買って読むことも否定はしない。する権利もない。だけど不快感を表明するぐらいの権利はあると思う。だから個人的な思いを、このブログという個人的な場で書いたのだ。「絶歌ってゲロだぜ」ということを。

 

久々に心をかき乱され、自分なりに考えをまとめるために書きました。タイトルすら見たくない人達の目に止まることも考え、UPするかしないかで迷いましたが、自分だけで悶々とするよりは思いを書いて整理するべきかもしれないと思い、迷った末に結局UPしました。これはあくまで個人的な見解であり、誰かに僕の意見を強制するものではありません。ご理解頂ければ幸いです。