タイラント日記

映画や小説について書きたくなった時だけ書きます

キミスイはセカチューになれるのか?妄想会議編:【君の膵臓をたべたい】

さて、実際に出版社が第二のセカチューを狙っているのか?という僕の下衆い邪推はおいといて、汚れたおっさんの心の琴線にもヒットする君の膵臓をたべたい通称キミスイ。この日記は「これ映画化するんじゃね?」という全くの個人的妄想をもとに進められておりますので、本気になって文句とか言わないで下さい。困るので。ただ単に困るので。大事なことなので二回言いました。

頑張れ邦画界!いやマジで頑張れ

さて、本当にキミスイを映画化するのであれば、ちゃんとこの「作品」を映像化してほしいなあと切に祈っております。だってさ、邦画の青春映画って良くも悪くも「低予算で作れるから作っといたよ?」とか「とにかく主人公が死ねばみんな泣くっしょ?」みたいな。素晴らしい「作品」を作るというより食べるための「お仕事」を作りました、みたいな、なんというか妥協感を感じることが正直多いんですよ。完全なる邪推なんで真剣に仕事されてる方々には本当申し訳ないですけど。お手軽に作りました感というかね。勿論これで名前出すと色々アレなので絶対書きませんけどね。燃えちゃうから。確実に燃えちゃうから。大体僕なんかはもうおっさんなので、どんな駄作でも登場人物が死にゃ泣くことは泣くんですよ。ていうか本線に全く関係無いペットが死んじゃう描写ですら泣きますからね。でもそういう起きた出来事で泣くのと物語で泣くのは全く別だろと。大違いだろと。天と地。月とスッポン。雲泥万里。泣けば満足するとかそんな訳ないだろ!もっと真剣に作れよ!というね。誰に向けて言ってるのか分からない一人言ですよ。ねえ。もう少し頑張ってくださいよマジで。5本観ても普通の当たりが1本あるかないかの邦画の現状。今後マジでヤバいと思いますよ。ぶっちゃけ最近は映画館で観るのが大好きな僕ですら、特定の監督作品以外で映画館行くの躊躇しますもの。金の無駄かなって。キミスイが映画化するのであれば期待せざるを得ないし、おそらく僕は観に行くでしょうし、ぜひ気合いれて作って頂きたい。実はもう動いてるんじゃないですか?(笑)という疑いを持ちつつね。その時はぜひ真剣に期待の若手オールスター出演!ぐらいの勢いでお願いしますよ。マジで。

輝け!第一回妄想キャスティング会議

友達いない子がよくやる「もし俺がこの作品を映画化するんなら〜」ていうアレね。それが妄想会議。これが楽しいんですよ。ちなみにオールタイムベストで考えるんだったら、もう主人公の男の子は決まってるんです。若い時の安藤政信。これもう確定。この主人公のちょっと斜に構えた感じを完全再現してほしかった。でもオールタイムベストだと桜良のほうが結構難しいんですよね。ロボコンの時の長澤まさみは割と近いんですけど、それこそ彼女はセカチューのイメージ強すぎますからね。ただ君を愛してるの時の宮﨑あおいとかも良かったなー。人のセックスを笑うなの時の蒼井優とかチャーミングでしたけどちょっとイメージ違うな。あとはまあ古いけど秘密の時の広末涼子とか。映画自体はアレでしたけど、あの頃の広末のかわいらしさは南半球に響き渡りますからね。まあこんな感じでオールタイムベスト妄想も進むんですけど、やはり今映画化するなら?!を真剣に考慮していきたいですよね。僕以外の誰の得にもなりませんけど。

 

さてズバリ。興行的に考えると登場人物が少ないですし、映画だけの新たなサブストーリーとかそういう余計なものはつけてほしくないので、メインキャスト2人にはネームバリューを持たせたい。となると主人公はちょっとモサくてクラスで一人でいても似合いそうな感じ…染谷将太か? 福士蒼汰だとちょっとスタイリッシュすぎる気がするんですよね。こいつ一人でいたってモテんだろ的な。あと個人的イメージでは本郷奏多が一番近いんだけど、ちょっとひねすぎてるような気もなあ…という。まあ主人公はこのどっちかで。そして桜良ですよやはり。これが迷う。かなり迷う。ネームバリューで考えればもう能年玲奈広瀬すず二択なんですけどね。個人的には陽だまりの彼女の中学時代イメージの葵わかながドンズバ本命。あのイメージ。ここまでで分かる通り、ビジュアルは完全にショートボブを考えております。すまんな。でも実際どうなんだろ。そこまで桜良の決定的な外見描写ってなかったような気がしたし、全然ショートボブでいけると思うけど。どうですかその辺は。

 

そして主人公に立ちふさがる桜良の友達。これはもう少し若かったら石橋杏奈で確定ですけど、さすがにちょっと年齢的に厳しい。だからそうなると小松菜々か橋本愛あたりを推したい。気が強そうというファクターを重視。どっちもこの程度の脇役オファー受けなそうですけど。そして主人公にガムくれる友達は池松壮亮イメージなんですけど、こちらもちょっと年齢が厳しいので、現実的に考えると西井幸人あたりですかね。鈴木先生の時けっこう良い味だしてたし。んで一瞬出てきて鮮烈に嫌な印象を残す桜良の元カレには、もはや主役クラスのオファーしか受けなそうですけど窪田正孝でお願いしたい。浅利陽介も捨て難いんですけど彼も年齢的に考えるともう厳しいか?って。だったら窪田正孝だろ!みたいな。彼には若い時の忍成修吾に近いものを感じるんですよ。疎まれてこそ輝くオーラを(笑)。とりあえず主要キャストはこんな感じですね。桜良のお母さん役には演技力があり、なおかつ可愛い雰囲気が残ってる人にお願いしたい。ということで薬師丸ひろ子とかですかね。原田美枝子とか風吹ジュンは好きなんだけどちょっと歳行きすぎかなーと。逆に主人公の母親は老けメイクしてもらって平岩紙で確定です。ひょうひょうとしたイメージがドンズバです。となるとやっぱり歳のイメージ合わせて薬師丸ひろ子が適任なんでしょうか…。

 

そして最後に監督なんですけど、これが一番迷うんですよ、監督。個人的にはちょっと横道世之介に通じるものを感じた部分があったので、だったらそのまんま個人的にも大好きな沖田修一を推したいんですけど、クライマックスの描写がちょっと想像つかないなと。あのテイストでどうやってキミスイのクライマックス撮るんだろう、というね。期待もあるし不安もある的な。ツボにはまれば犬童一心も捨てがたいんですけど、こっちはハマらないと割と悲惨ですし(笑)。素晴らしい原作を映画化することに(僕の中で猛烈に)定評がある中村義洋なんかも素敵ですね。うーん迷います。監督はちょっと保留にしときますね。思いついたら追記しようかな(笑)

 

という訳で全く業界に関係無い大人が真剣に映画化を考える妄想会議いかがでしたでしょうか。僕は今ちょっと読み直してドン引きでしたけど。いい歳して何してんだお前って感じです。でも楽しかったしなんかあったらまたやろうと思います。あーなんか疲れた。すごい疲れた(笑)

おまけの妄想話

ちょっと横道世之介で思い出したんですけど、この小説って男女の違いはあるんですけど、なんとなくノッキンオンヘブンズドアーにも通じるものがあるような気がしました。長瀬智也リメイク版じゃなくて、ティル・シュヴァイガーのドイツ版のほう。太宰府への旅行部分はロードムービーっちゃあロードムービーですし。友情以上愛情未満みたいな感じとか。どうでしょう。これに同意してくれる人とは色々話が合うと思います。まあ合ってどうするって感じですけども。

キミスイはセカチューになれるのか?読書感想編:【君の膵臓をたべたい】

読了後にこれが著者のデビュー作だったと知りました。すげえね。作風の好き嫌いは別として、デビュー作でこんなの出されたらこりゃすごいとしか言いようがありませんよ。しかも文章も読みやすく世界も分かりやすい。最後まで一気に読ませる力もある。少なくとも僕はこの著者の第二作も確実に読むだろうと思います。

 

物語のあらすじとしてはひょんなことからクラスメイトである山内桜良が余命僅かなことを知ってしまう主人公。表と裏のような性格でクラスの立ち位置もまるで違う2人が、秘密を共有したことで進んでいく青春ストーリー…とまあざっくり言うとこんな感じでしょうか。

 

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最近若者の◯◯離れ、というのがしょっちゅうクローズアップされてます。この◯◯には本も当然含まれている訳ですよ。しかし唯一この若者の本離れに善戦しているというか、歯止めをかけているのがラノベ、いわゆる「ライトノベル」だと個人的には感じております。とは言え何年も前のことですが、以前ちょろっとやっていた本の感想ブログで、某有名ラノベ作家の作品を読了後に「個人的には作風があんま好みじゃなくて正直そんな面白くなかったなー」なんて気軽に書いたが最後。熱烈な信者様の何人かがどこからか嗅ぎつけたようで「お前如き浅薄で下賤なものには分からないと思うけどこの表現にはうんぬんかんぬんエトセトラエトセトラ〜」という心暖まる突撃を受けて以来、感想を書くのはどことなく敬遠するジャンルになっております。うーんハートフル。言うても僕マンガもアニメも気が狂うほど好きですし、そもそも原作小説はとりあえず読んでみるタイプなので偏見無いほうだと思いますけどね。伊藤計劃ヤマグチノボルの夭逝には心を痛めた一人ですし。特に片桐彩子日記あたりはリアルタイムで読んでましたから。ていうかあの頃の個人の日記サイトは、それこそ下手な小説よりよっぽど面白いというか、ぶっちゃけキ◯ガイ多くてカオスだったからめっちゃハマってましたよ。そんなコアな時代であった当時ならともかく、この個人ブログが一般的になり多様化したこの現代でも、「相手が誰であろうと自分の神を侮辱する奴は殺す!」という信仰に似た狂気を抱えた方々は未だに結構いらっしゃる、というをあの時に学びました。いんたーねっとこわい。

 

まったく話がそれたので戻しますが。

今はどうか知りませんけど、当時人気の高いラノベを読むと、けっこう頻繁に物語の特徴として「極めてキュートな女の子の存在」が出てくるんですよ。まあそれはキャラ設定の問題ですし、むこうも商売ですからね。当然ある程度読者に受ける素敵なサムシングが必要になる、というのも理解しておりますがね。性格はもちろん千差万別なんですけど、そのとにかく可愛い魅力的な女の子がなぜかさえない主人公(でも特殊能力を持ってたり血筋が良かったりはする)を無条件を好きになるパターンが大変多いなあ、とね、当時思っとったんですよ。太陽のように明るいヒロインと、無感動主義というか虚無主義の主人公のパターン。特に学校を舞台にしてる物語にはこの傾向が顕著で、テンプレートかっていうぐらい「どうしてこんな友達もいなくて個人主義だから他人に関わってほしくない僕にこんな明るくてかわいらしいクラスでも人気者の女の子がつきまとうのかなあ(ふぅ)」みたいな。こういうのめっちゃ多いな、と。

 

で、この君の膵臓をたべたいがまさにこれなんですよ(笑)。だから最初に読み始めた時は正直「あれ…これやっちゃったかな」と思いました。ぶっちゃけね。どうせお互い好きになっちゃうんでしょ、と。クライマックスは涙の死別シーンなんでしょ、と。結論としては全然そういうテンプレート小説ではなかったんですけど、ある意味予想を上回らない世界設定ではありましたね。でも読み終えてみるとこれは正解だと思いました。この分かりやすい世界設定だからこそ、物語の中での2人のゆらぎに集中できるんです。基本は主人公視点で物語が展開していくので、あくまで桜良の心の動きは想像の部分が多いんですけど、おそらく余分なサイドストーリーも省き、時間の流れにそった本線だけに集中させてくれるこの作りが、本作には非常にあっていたと思います。冒頭に時系列がいじられた描写が出てますが、実際にはある意味そこ以降の物語こそが本作における本番ですから。

心の揺れ動きかたの描き方が素晴らしい

実際当たり前っちゃ当たり前なんですけど、物語が進んでいくと主人公が桜良に好意を持ちはじめるんですよ。そりゃこれだけかわいらしい顔と性格の女子とずっと仲良くしてりゃ若い男子なら好きになっちゃうだろ(笑)的な。ところがここでお互いに淡い好意を持ちつつも、だからどうしたっていう訳じゃないんです。この辺りの曖昧さの表現というか物語の進行が実に素晴らしい。ここで恋仲にしちゃうのは楽だし簡単だと思うんですが、主人公も桜良も年頃の男女にありがちの淡い好意と好奇心からなかなかはみ出していかないんです。桜良は余命僅かという自らの特殊な状況であったり、主人公は他人との繋がりを避ける性格や、普段の自分がおかれている状況から、相手に対して積極的に踏み出そうとはしないんですが、それがすっごく良いんです。中年でおっさんの僕が姪っ子の恋話聞いてニヤニヤしちゃうみたいな。そういうアレですよ。分かるかなこれ(笑)

 

で、そんな微笑ましい物語とは裏腹に、桜良の病状も悪化していってしまうんですが〜…感想ブログなのにこれ以降の展開は正直この本で読んでほしいから書きませんよ!というね(笑)。だって読んでほしいんですよ。正直本を読み慣れた人だったら2時間かからないと思うし、ぜひ最近本を読んでないなーみたいな方にこそ読んでほしい。実際僕は1時間程度で読めましたし。全然さらっと読めるんで。マジで。オススメです。ただ場所は選んだほうが良いかもしれませんね。僕は一人カフェでお茶しながら読んだんですけど、「メール既読」のあたりではもう号泣ですからね。マジでボロボロと泣きました。あれ僕がカフェの店員だったら躊躇なくしますから。通報。カモンポリスマン。良かったですよ通報されないで。セーフ!

すでに映画化する気まんまん?

さて、僕はそこまで原作原理主義ではないので、映画化するなら〜とか妄想するのが大好きなんですよ。もちろん大好きな小説であればあるほど、駄作として映像化された時には鬼のように文句言いますけどね。そしてすでにネットでこの作品に対して、ちらほらと映像化に対する賛成派反対派の意見が見受けられます。本作が話題だからこそとは思いますが、個人的にはこれ映画化不可避だと思ってます。その理由はここ最近の出来が良かった小説作品で、これほど「若い男女の俳優を売り出すのに適した物語は無いんじゃないかな?」ということです。そうなると当然あの小説が比較対象として出てきますよね。世界の中心で、愛をさけぶ。通称セカチューです。若くして死んでしまう魅力的なヒロインというだけで、この作品を思い出してしまう人も多いでしょう。この作品の凄いところは、映画だけではなくドラマ化もされ、なおかつ両方とも出演した若い主要キャスト達がこの後役者としてステップアップしているという、ある意味伝説的な作品でもあります。実際出版社がこの作品をキミスイって略して宣伝してる時点で、個人的には99%セカチューを意識してると思うんですけどね。どうなんでしょう。キミスイ。セカチュー。ねえ? どうなんだろう。映画化するんじゃないかなー。誰キャスティングするのかなー。…あ、なんかこれ面白そうなんでちょっと別にして書きますね(笑)

一億総ツッコミ時代に現れた爽快すぎる豪放磊落ムービー:【マッドマックス 怒りのデス・ロード】

※以下結末までネタバレを含んでいますので未見の方はお控えください。

凄かった…。

 

観終わったあとにただ一言そう呟いてしまった。これは凄い映画でした。奇跡の映画と言ってもいいんじゃないでしょうか。実はDVDレンタルまでスルーする予定だったんですよ。それは前作サンダードーム鑑賞後の映画館から帰り道が一足お先に怒りのデスロードになってしまった苦い記憶や、新作公開に至るまでがグダグダすぎて期待値がダダ下がっていたこと、そして何よりあまりにも衝撃的で破天荒だったマッドマックス1と2を撮った当時のパワーが、歳をとりすぎたジョージ・ミラーにはもう無くなってしまってるんじゃないのか?という心配。すみません全て杞憂でした。脱帽でございます。余計なお世話でした。御大さーせん!自分舐めてました!あざーす!凄い映画あざーす!

撮りたいものを撮るんだ!という凄味

基本的にマッドマックス第一作目は低予算映画で、しかもその低予算の殆どをジョージミラーは登場するバイクや車の改造費に当てたという「オラが観たいものを撮るんだす!」というある意味究極の極私映画。それが無軌道かつ破天荒なB級でありながらド級の映画になりえたバックボーンであると個人的に考えているのですが、その原動力でもあった御大の気骨が齢70にして未だ衰えていなかったのはまさに驚異。ぶっちゃけて言えばジョージ・ミラーは単に自分の考えた世紀末カーチェイス撮りたかっただけじゃねーのか?とすら疑わせる、彼の極私的欲望で全てを吹き飛ばす勢いがこの映画にはありますよ。台詞いらないんじゃね?とすらw

 

実際には映画の背景に物語が仕込まれてることは、観客にもちらほらと伝わってきます。主人公マックスがたびたびフラッシュバックで見てしまう、小さな子供をはじめとするマックスを苛む死者達の幻影。これは何らかの理由で彼が救えなかった過去の産物なんでしょう。彼が死ぬことを待ち望むかのような死者達の幻影。おそらくマックスが過去の失敗によって背負った挫折と絶望。そして同時にその体験からくる自殺願望なのか?とかですね。敵との闘いの中ですら死者である子供の幻影を見てしまうマックスは、子供の幻影が襲いかかってきた瞬間思わず手で顔をかばってしまうのですが、このかざした手が飛んできた矢を防ぐことで、間一髪彼は命拾いをするのです。これはマックスの「生きたい」という、心の奥底にあった気持ちが現れたシーンだったのか?と考えさせられるシーンです。また愛を知ってウォーボーイズから脱却するニュークスの物語は、現実でも問題が多いカルトからの愛による脱却劇がベースなのかな?とか、特攻という手段を選ぶウォーボーイズ達に情勢不安な世界で愛国心が戦争へ向かう流れを否定する裏ストーリーが隠されているのかな?等々。伏線なのか裏設定なのか分かりませんが、少なくとも観客に考えさせる部分が全く無い、勢いオンリー映画という訳でもないのです。

 

でも正直この映画観てたら「まあ…そんなことどうでもいっか!」という気分になっちゃいますよねw それはもう仕方ないw ぶっちゃけストーリー的にもひねりも無いし、細かな設定はツッコミだしちゃうとキリが無くなっちゃいますから。なんでそんなとこで火の出るギター弾いてんだよwとか、なんでわざわざ危険な攻撃方法とってんだwとかね。悪く言えば行き当たりばったりムービーですらあるんですよ。世はまさにインターネット時代。アニメに出てくる武器の持ち方が本来と違うってだけで制作会社が炎上する時代ですよ。ツッコもうと思えばもうキリが無いマッドマックス。1や2が公開された70〜80年代じゃないんだから、これだけ穴が多い映画は大炎上しても不思議じゃありません。でもこの映画観たら思っちゃうんですよね。

 

そんなこと言うの野暮だな」って。

 

この言葉ほど的確な言葉は無いと思うんです。野暮。いやマジで。この映画にツッコむこと自体野暮ですよ。アホになって「わー!すげー!すげーよー!」ってだけでいいんです。「ニュークスがイモータンジョーの命を受けて勢い良く飛び出した直後にずっこけるシーンは緊張と緩和を上手く使っているよね」なんて小難しく考えず、「面白えー!」って単純に笑ってしまえばいいんです。そんな映画がこの時代に観れるっていうだけで大感謝じゃないですか。現実を考えさせられる映画、いっぱい泣ける映画、胸がしめつけられる映画とまあ映画には色々ありますけど、観てるだけで楽しいっていうのは本当に大事なことだと思うんです。その映画の原点がこのマッドマックスにはあると思います。最高でした。DVDで観てもいいと思うんですけど、やっぱりこれは映画館で観てこその映画だと思います。ちなみに僕ももう一回映画館行く予定ですよ。次は4DXで観たいなー。

 

おまけの考察

最後に一つちょっと気になった点。かつてマッドマックス2の世界観が原哲夫大先生にインスピレーションを与え、その結果生まれたのが北斗の拳、というのはもう手垢がつくぐらい紹介されつくされてますけど、今回の怒りのデスロードって「逆に北斗の拳からインスピレーション得てるんじゃないか?」とすら思うシーンがちらほら見受けられますよね。棒飛び隊と木人形狩りのハブとか、鉄馬の女たちの種もみ抱えたまま死んじゃう婆さんとミスミのじいさんとか。他にもフュリオサが連れ出した女達のスタイルや、砦に残ってた小人の兄弟が息をするのもめんどくせえでお馴染みのゲイラっぽいとか。まあスタイルに関しては元々マッドマックス2由来だし、ゲイラは元々ジャバ・ザ・ハットがモデルなので、鶏が先か卵が先かって気もしなくもないですけどね。どうなんでしょう。誰かジョージ・ミラーに聞いたりしてないのかなー?

ぼくのなにかもはじまりそうです:【はじまりのうた】

※以下結末までネタバレを含んでいますので未見の方はお控えください。

 

観よう観ようと思っていたのにタイミングを逃し続け、もうDVD出たら観ればいいか…と思ってたら近場の小さな映画館で上映されてました。僕の人生の八割はこういったラッキーと行き当たりばったりで形成されています。

 

物語は、かつてグラミーを二回とった才気も溢れるが私生活や生活にも問題が溢れ、それが仇となって自身が創設した会社を首になったばかりの音楽プロデューサーのダン(マーク・ラファロ)と、自身も音楽の才能を持ち、同じく才能を持つ彼をサポートする為に渡米してきたのに成功と共に裏切られ捨てられ、絶望にうちひしがれるグレタ(キーラ・ナイトレイ)がNYの小さなバーで出会うところから始まります。

 

この映画が最高に素晴らしいところは「音楽って楽しむことなんだよね」というポジティブオーラが全篇通して伝わってくる事ですね。こういうこと書くと「そもそも音楽の楽は楽器の楽なんですけど」等と野暮なことを言われたりもするんですがw とにかく優れた音楽には、色んな感情を掻き立てるパワーがあります。それは時に悲しい記憶だったりもしますが、やはり音楽が最も優れたところは、人を幸せにするパワーを持っていることだと僕は思っています。それこそが音楽の真髄であると。しかし音楽業界の現状を一言で言えば「楽しいだけではやっていけないでしょ?」というシビアなものです。僕にも音楽業界の知り合いが何人もいますが、聞こえてくる話は決して楽しい話だけではありません。むしろ苦しい話や身につまされる話のほうが多いかもしれません。日本に限らずアメリカでも同じようで、この映画でもダンの会社が近況に苦慮し経営的に苦しむ描写が出てきます。ダン自身その環境にアジャストしきれず、結果的に共同経営者に解雇されてしまうのです。しかし妻と娘の関係にも問題を抱えるダンがどん底の環境の中で、酒に溺れながらふらっと入った場末のバーでグレタに出会う。この導入部は完璧だと思いました。

 

人生は楽しいことばかりではありませんが、この映画からには徹頭徹尾「音楽っていうのは楽しいんだ!」という製作者の骨太な思いが伝わってくる気がします。ダンとグレタにはお金も何も無かったけど音楽への情熱はあった。彼らはNYの色んな場所でストリートレコーディングしてアルバムを創ろう!という素敵なアイデアを思いつき、それを実行に移すのです。野外なのでパトカーのサイレンや雑音が入りまくるし、近所の住民にうるさいと怒鳴られたりする。近くで遊んでいた子供達を急遽コーラスに参加させたりもする。決して良質とは言えない環境なのに、彼らの楽しむ姿が反映されているかのように、素晴らしい音楽がそこから生まれるのです。この辺りは観ている僕の頬もゆるみっぱなしでした。

 

ここに至る前に観客にはさりげなくダンとグレタが音楽的才能を持つことが知らされます。それがダンとグレタの出会いのシーンです。ダンが頭の中でグレタの音楽をアレンジする描写が出てくるのですが、これが感覚で生きるダンのクリエイターとしての敏腕さを表した好シーンでした。最初に聞いたそっけなさすら感じたアコーステックな歌が、ダンの頭の中で素晴らしい楽曲に変わっていくのです。ここでグレタに音楽の才能があることだけでなく、ダンには音楽プロデューサーの才能があることがはっきり観客に伝わります。実に素晴らしいシーンです。実際キーラ・ナイトレイの才能にビックリしますw めっちゃ歌うまいんですよw この映画にはマルーン5アダム・レヴィーンが元カレ役で出てきますが、彼にもひけをとらないような美声でした。受け口気味のキーラ・ナイトレイは個人的に全然タイプじゃないんですけど、この映画でのキーラに関しては相当チャーミングでしたね。しかもCG加工なのか分からないんですけど、グレタの歯並びの悪さというか、ガチャッ歯なのがすごいリアルだなあとw 歌上手い人ってなぜか歯並び悪い人が多いですからw

 

表現方法と言えば、この映画は日時と視点がくるくる変わる手法が効果的に取り入れられています。ダンがグレタに出会うまでのストーリーが展開された後、今度は同日グレタがダンに出会うまでのストーリーが展開される、という感じです。この手法は最近だと邦画【桐島、部活やめるってよ】で使われてましたね。僕はこの手法は結構お気に入りです。この手法は「主役以外にも人生が存在している」という描写が活きやすいからです。桐島〜は物語のテーマ自体がそこをクローズアップしたものだったので、この手法が実に映画にフィットしてましたが、本作ではクローズアップ自体は主役2人にほぼ限定されています。けれど2人の人生に登場する「この2人にとっての脇役」の人生が実に人間味に溢れ、色んな意味で魅力的であり、その2人の世界がやがて交わっていくという流れが実に効果的で良かったと思います。バックバンドにミュージシャン達が加わる流れだけは、逆に分かり辛くなってしまったような気もしましたが…

 

さて、僕がこの映画を観て一番強く感じた事。それはこの映画が音楽の本質という部分に着目していることです。音楽っていったい何なの?というテーマだけではなく、音楽業界や関係者達に向けたあなた達にとっての音楽って何なの?という鋭いナイフのような問いかけを喉元に突きつけてもいます。それがラストシーンのグレタとダンの選択に繋がってくる訳ですね。ここはミュージシャンや関係者によっては評価が分かれるところでしょう。音楽の顧客である僕らですら、この行為の是非は分かれるでしょう。しかし10ドルで売って1ドル印税が入るアルバムを、自分達の手で1ドルぽっきりで売る。青臭い発想であり自己陶酔にすぎないという非難もあるでしょうが、だからこそこの映画のラストとしては最高にハッピーで、これ以外は有り得ないと言えるぐらい完璧な展開でした(もちろん音楽の販売方法の是非は別としてw)。正直このラストで個人的にはもう文句のつけどころが無くなりました。映画が終わった後もしばらくニヤニヤしちゃうほどハッピーな結末。それこそがこの幸せな映画にふさわしいエンディングだと思います。

絶えたのは歌ではなく望みだった:【絶歌】

あれからもう20年近い年月が流れたのか…。唐突に出版された【絶歌】で一気にあの時代に引き戻された気がした。その騒動は収まるどころか日に日に拡大している。そして今もなお論争の渦中であり、沈静化する気配は一切みせていない。メディアでも、SNSでも、そして現実でも僕らの間でこの話題は加熱している。刑期を終えたことを贖罪を終えたとして扱うべきなのか、元受刑者の創作意欲は罪なのか等と、それぞれの方向からの論争も激しさを増しているが、やはり最大の焦点は「実在の犯罪者が犯した罪とその行為そのものを題材として金を稼ぐことの是非」だと思う。

 

人を殺した人間がその事件や行為そのものを題材にして本を出版する。僕はこの一点に対してだけ確実にNOを突きつけたい。1%の曇りもなく純度100%なNOだ。元犯罪に手を染めていた人間が、その後に経験を元にしてフィクション小説を書く行為とは似て非なるものだ。ここで贖罪の有無は問題ではない。行為の好き嫌いの問題でもない。僕は殺人を犯した当事者がその犯罪を主観で語り金を稼ぐことを否定しているのだ。いくら編集者の存在があったとしても、当事者が「こう思いました」と主張したならば、どこに他者の意見が入りこむ余地があるというのか。殺人を犯した人間が、その犯罪自体を装飾するなんて嫌悪感以外のなにも感じない。自己保身、自己正当化、自己弁護、責任放棄に責任転嫁。どれも思うがままだ。学術的観点から出版の意義はある? 学術的観点が必要ならば裁判記録を読めば事足りるだろう。本当に研究が必要なのであれば自分の足で関係各所を尋ねて回るべきじゃないか。本人の心の闇を知るべき? 主に今この本を買っている市井の人々がそれを知って何をどうするというのか。単なる好奇心で読みたいという動機のほうがよほど健全だ。当事者達にとってどれだけ忌まわしく悲惨な事件でも、対岸の火事を眺める僕らにはやはりどこかで他人事だ。ひょっとしたら自分たちにも振りかかるかも〜等というのも事実ではあるが、それを我が身の事として真摯に受け止められる人間がどれだけいるというのか。

 

僕はこう考えている。本を一冊も読んだことがなくても、大量殺人者でも、凡夫でも天才でも、あまねく全ての人が文章を書く資格を持っている。だからこの本の中で綴られた文章に対し、個人的感情を除けば問題は無いし文句をつける気はない。だが重ねて言うが人を殺した人間がその事件や行為そのものを題材にして本を出版することは僕は100%否定する。どんなに下衆な本を売って利益を得ようとも、その出版社の行為を嫌悪はしても否定はしない。ただし【絶歌】という殺人者の体験談と主張を金に変えようとしたことは全力で否定する。そこへ至る経緯からその品性を疑っているが、それはまた個人的で別の話である。

 

とはいえこの本の出版にあたり、出版社からも元少年Aからも遺族への説明はなかった点は常軌を逸していると言っていい。卑怯な奇襲作戦である。たしかに遺族に許可を求めたところで、彼らから許可が出ないことはほぼ分かっていただろう。でも、それでも、彼らは遺族への説明と許可を求める作業を怠るべきではなかった。まずここが大いにひっかかってしまうのだ。礼を尽くし、許可を求め、断られ、それでも出版したということであれば、是非はともかくとして挟持を少しは感じられたのかもしれない。しかし実際には単なる不意打ちだ。後から出版社の社長がメディアで出版の意義だ世の中に問うだといった言い訳を並べていたが、その言葉に一片の価値も無い。本が売れない出版不況の中、(もし彼を新人作家と定義するのであればであるが)名も無き新人作家に対し初版10万部という一点をもってしても、彼らが感じていたのは意義ではなく損得勘定だ。資本主義社会に生きている以上ビジネスを完全に否定する気はない。しかし僕の愛する本の出版に関わる人達が是非善悪の判断が出来ない人達だった、と考えてしまうことが実に心苦しい。正直な話、この不況の中でも【絶歌】は売れるだろう。しかしこの騒動によって「本を読む事自体への嫌悪感」も加速するような気がする。こういう話題の成り方は出版全体から見れば、マイナスになれどプラスにはならない気がする。もはや【絶歌】はただの踏み絵でしかない。

 

最後にこの【絶歌】という本自体の評価はどうなのか、というある意味核心の部分に触れておきたい。こういった批判や議論の対象となった本や映画に対して「見る前読む前から批判を行うのはフェアではない」といった論説をよく読む。この主張に対してそもそも思うところがあるのだが、今回僕は【絶歌】に目を通している。なのである意味今回の僕はフェアであるということになる(笑)。勿論この本が出版されたことに対し、利益を発生させる気などはさらさら無かったので、某中古書店に100円で並ぶまではスルーする予定だったが、なんと普段本を全く読まない友人が発売当日に速攻で買っていた。これにはさすがに苦笑したが、結果として読むことが出来た訳だ。しかし読み進めるにつれ、僕はすぐに本を開いてしまったことすら後悔した。文章力は高いと言えるかもしれない。だが書かれている悍ましい彼の主観が終始どこかで聞いたような表現で修飾されている。剽窃に近いと言ってもいいかもしれない。有り余る時間の中で本をたくさん読んだかもしれない。お気に入りの作家が出来てその影響なのかもしれない。しかしここにあるのは見苦しい駄文だ。美しい言葉でかざられた文章が美しいとは限らない。はっきり言えば読むに耐えない。小説でもなくノンフィクションでもない。これは自己陶酔した男が吐き出した吐瀉物だ。それなのに表面だけは綺麗に飾られてるから、本好きであればあるほど不快になる。感情を逆撫でしてくる。なるほど、そういう意味では大した本だと言えるのかもしれない。そしてあとがきこそある意味この本の真骨頂である。読んだ人間の後悔という感情を最も高まらせてくれる部分だ。僕はつくづくこの本は読むべきでなかったと思った。このあとがきを読んだことで僕は腸が煮えくりかえりそうだった。元少年Aは中年Aに変わっただけで、なんら本質は変わっていない。それがこの本を読んだ僕の最終結論である。

 

ところで奇しくも同時期に窪美澄の同事件を扱ったフィクションが上梓されている。こちらは購入して読ませて頂いたが、もう比べることすらおこがましいほど顕著な差があった。好き嫌いは勿論あるだろう。正直僕も好きか嫌いかで言えば嫌い寄りの著者ではある(笑)。しかし著者の決意であり挟持が充分感じられる作品であった。本来であれば、当事者である元少年A以上にこの事件を語れる人などいないはずだ。にも関わらず、彼女が綴ったこの本は心を抉り、読んだ人に考えさせる力があった。窪美澄は当然元少年Aではないし、おそらく会ったことも無いだろう。だが彼女は裁判記録や取材でこれだけの本を書き上げたのだ。これこそ作家の真髄ではないだろうか。彼女こそ賞賛も批判も受けるに値する「作家」だと思った。もう一度重ねて言うが元少年Aは作家ではない。【絶歌】は賞賛も批判も受けるに値しない、単なる元少年Aの吐瀉物だ。僕はこの本を読みたいと思うことも、実際に買って読むことも否定はしない。する権利もない。だけど不快感を表明するぐらいの権利はあると思う。だから個人的な思いを、このブログという個人的な場で書いたのだ。「絶歌ってゲロだぜ」ということを。

 

久々に心をかき乱され、自分なりに考えをまとめるために書きました。タイトルすら見たくない人達の目に止まることも考え、UPするかしないかで迷いましたが、自分だけで悶々とするよりは思いを書いて整理するべきかもしれないと思い、迷った末に結局UPしました。これはあくまで個人的な見解であり、誰かに僕の意見を強制するものではありません。ご理解頂ければ幸いです。

劇場版寄生獣の改変にやや角度の違うツッコミがはいった件

noday.hatenablog.com

 

日劇場版寄生獣完結編を観賞した後、上記のようなエントリーを一本書いたのですが、最近本編内のあるシーンについて、現役放射線科医のPKAさんから問題点について提言され、それがネットで話題になっていました。その該当ツイートが下記になります。

 

 

詳しい内容は是非読んで頂くとして、簡単にまとめると「ラストの後藤との対決シーンで、彼を倒す直接的原因となる物質の扱いについての科学考証には大きな問題があり、この破綻は放置するには致命的なのでどうにかできないか?」という内容であり、非常に興味深いツイートでした。このツイートを読んで思ったこと、ラストシーンの改変についてなど、僕なりに考えたことを少し書きたいなと思ったので、再び劇場版寄生獣について触れてみます。

 

(ちなみに文末に「他人様の作品に対してこうすべきではなかったなどという不躾さはよくわかっております」とあって、それがまさになぜ寄生獣ファンである僕は映画版寄生獣では満足出来なかったのかで僕が書いたエントリーがそのまま刺される文言だったので鼻からコーヒー吹きましたが、プロという存在とその製作物に対する僕なりの持論もありますのでこの辺りはそのうち別に書けたらいいなと思ってます)

 

※このエントリーは物語の結末に触れるネタバレも含んでおりますので、映画未見の方は観賞後の閲覧をオススメします。

 

まず、作品内での後藤との対決シーンについてですが、この棒に付着した有害物質の改変について、当然ですが僕も映画を観ながら気づいていました。正直「陳腐な改変したもんだなー」とは思いましたが、それはPKAさんが提言したような「放射性物質の性質と映画内での取り扱いにおいて致命的な矛盾に気づいた」等という高尚なレベルの話ではなく、ぶっちゃけて言えば「うわー放射性物質かー。話題作りっぽいなー。時事の流行に乗っかっちゃったのかなー」と思った程度でした。もちろんこれは邪推であり、失礼であることぐらいは想像がつく歳ですので、エントリー内では特に触れず、唐突さと説明不足が目立っていたと書くに留まりました。

 

そもそも身も蓋もない話ですが、映画(特に邦画)において現実で有り得ないような事件や展開など、今更とりあげるまでもなく日常茶飯事です。例えば僕はスポーツ観戦が大好きですが、スポーツを題材にしたドラマや映画で、観ているだけで憤死しそうな展開など掃いて捨てるほど観てきました。別に題材をスポーツに限らなくても、何度読み返したか分からないほど大好きな原作小説が、実写化によってトンデモ作品にされてしまったことも、手の指だけじゃなく足の指を使っても数えきれない程あります。そういった酷い改変が繰り返されてきた歴史がありますので、ある程度映画を見慣れている人というのは、改変に対してある種の耐性(諦観とも言う)が備わっています。ゆえにこの問題のシーンも、PKAさんのような科学的知識を有した方達がひっかかった以外は、僕のようなそこに至るまでの改変によほどひっかかっていた人か、もしくは原作未読の為それほど気にしなかった人が殆どだったのではないでしょうか。

 

しかし「放射能」というキーワードが絡むことで、問題は映画を観ている人達だけの話ではなくなってしまいました。現在の日本において、放射能について全く無関心でいられる層はかなり少数でしょう。メンタルが強靭すぎる人でも無い限り、あの311以降に放射能というキーワードが心に引っかかってない日本人はいません。だからこそ劇場版寄生獣において、監督が物語のキーワードとなる有害物質をダイオキシンから放射性物質に変更したのかもしれません。多くの日本人が持っている不安に訴えかける要素として、それを選んだとしてもおかしなことではないでしょう。しかし「その性質についての解釈が物語を破綻させるほどの勘違いをしている」となればこれはもう単純に失態です。物語本筋ではなく単純な事実誤認で波紋を呼んでしまったこと。この一点はある意味この映画において一番の大失態と言えるでしょう。

 

逆に言えば今回の話はある意味で単純で、「放射能という現在の日本にとって非常にナーバスな要素」であるがゆえに大きな問題になったのです。物語のテーマがSFであり、その名の通り「フィクションではあるがサイエンスという現実もベースになっている物語」であることや、「多くのファンを抱える人気漫画が原作である」ことも多少問題を複雑にする要因ですが、最も根が深く、最も注目されている原因はそれが「放射能」だったこと。この一点です。

 

少し別の角度で想像してみます。例えば日本の漫画史上において屈指の人気作であるスラムダンク。この人気作が遂に実写映画化されたとしましょう。しかし映画としての盛り上がりを目指した監督の独自解釈により、山王戦での花道の最後のシュートがスラムダンクに変更されました。さあどうなるでしょうか。おそらく日本だけではなく海外ファンからも強烈な非難を受け、日本映画史上最大の炎上劇が繰り広げられるでしょう。日本だけでなくアジアでも屈指の人気漫画で巨大ファン層をもつ同作品でそんな改変を行えば、大炎上することはそれこそ火を見るより明らかです。しかしこの問題が社会的論争になるか?となると話はちょっと変わります。というか、社会的論争に発展することは無いでしょう。

 

なぜなら「ラストのシュートがジャンプシュートでなくなる問題」はあくまでファンだけの問題だからです。身も蓋もない言い方をすれば、スラムダンクファン以外からは「ダンクでもジャンプシュートでも同じ二点なら別にいいんじゃないの?」と言われても驚きません。原作において、直前の合宿で死ぬ程練習したジャンプシュートを一方的に敵視していたけどいまいち相手にされてなかった流川からのラストパスをもらってシュートを決める、という流れがあったからこそ感動の増すシーンですが、この練習部分を削除してしまえば、ストーリーだけで言えばそこまで不自然ではなくなります。製作者側からは「むしろ見た目的なインパクトはスラムダンクのほうがあるから変えて良かったでしょ?」的な意見すら出るでしょうね。手に取るように想像がつきますよ。奴らはそれぐらい余裕でやってのけます。そしてファンが怒るのです。激怒です。長年大事にしてきたものがビジネスという名の主義思想によって踏みにじられ、血の涙を流さんばかりに抗議するのです。多分ネットで殺人予告とか飛び出ると思います。マジにあかんやつで。

 

ただ、そこまで論争が発展したとしても、あくまでもそれは「ファン内での論争」にすぎないでしょう。悲しい話ですが、この程度の改変はもう散々やられてきているのです。そのたびにファンは怒り、悲しみ、歯ぎしりしながら「この恨みは絶対忘れないぞ!」と現実やネットで憤りをぶちまけてきた歴史があるのです。怖いですね。恐ろしいですね。ちなみに僕もいまだにデビルマンを台無しにされた恨みは1mmも忘れていませんけどね。ぜったいゆるさないぞ。

 

しかしここまで書いておいて何ですが、映像化における原作の改変について、「全てを認める訳ではないが頭から否定をすることもしない」というのが僕の基本的スタンスです。どんなに納得いかない改変だったとしても、監督が独自の解釈と信念をもって改変したのであれば、それが自分にとって多少不愉快だったり納得がいかなくても割と受けいれるほうだと思っています。しかし単なる行き当たりばったりでどうしようもない改変だったり、今回のようにナーヴァスな問題でしかも間違った解釈に基づいているとなれば話は別。面倒な事に触れるな、という訳ではありません。面倒な事に触れるのであればもっと厳格に突き詰め向き合うべきだ、と考えています。今回は製作陣にとって単純な事実誤認なのだから、それを生業とする側として、しっかり修正するのが本来の筋だと思います。ですので結論としては僕もPKAさんの意見に賛成です。東宝にはぜひお金をかけてでも、この問題の解決に立ち向かって頂きたいです。

 

追記

…とここまで勢いよく書いてきましたが、この問題に具体的な対応をしてもらえることはおそらく無いんじゃないかな…というのも正直な気持ちですけどね。この問題の部分を修正するということは、お金にならないどころか誰かがババをひき、その上で予算を組まなければ解決できない問題でしょう。それをやってくれる人って…いるんですかね…。映画製作に関して完全素人の僕ですら、それがキャリアにマイナスになりそうなことぐらい想像つきますからね…。きっちり修正してくれることを祈ってはおりますが、無理だろうなあという諦観の気持ちは正直否めません。こういう部分にもきっちりお金かけて修正してくれる様な業界であれば、今後の人気漫画や名作小説の実写化にはもう少し希望が持てるんですが…。この後どんな展開になるか。注目したいと思います。

中年親父無双映画の需要と供給:【ラン・オールナイト】

※以下結末までネタバレを含んでいますので未見の方はお控えください。

 

何て言うんでしょうか。一言で言えば清々しいくらいのデウス・エクス・マキナ。極んでます。映画館で無ければ大声でツッコミいれたいクライマックスでしたが、アクション映画としてはこれが正解なのかもしれません。そういえばこの監督が同じく主演リーアム・ニーソンで撮ってたアンノウン。あれのクライマックスも割とツッコミいれたくなる類いだったので、そういう手法を得意としている監督なのかもしれませんね。

 

考えてみればそもそもこの映画自体が、ハリウッドでNo.1タフガイパパの座を射止めつつあるリーアム・ニーソンの親父無双を観て、余計なことを考えずにスッキリしたいという層をメインターゲットとしてるんでしょうし、ごてごてした設定などは余計で不要と割り切ってるのかもしれません。それならそれで有りかもしれませんよね。いや、知りませんけども。

 

キャラクターに関しては…うーん。いや、分かってます。アル中で手元足下のおぼつかないよろよろ中年から、いきなりハイパー殺し屋パパへ変身しちゃうのにツッコむのは野暮ってもんです。しかしさすがにエド・ハリスの無駄遣い感にはツッコませて頂きたい。半端ない。全米No.1で大都市で利権渦巻くNYを仕切り、その権力は当然警察にも及び、無法な移民マフィアすらも話を通したがる老舗マフィアのボス。でもドラッグは扱わないし、本拠地は趣のあるこじんまりしたパブだし、幹部とボディーガード含めても6~7人?程度しか出てこないし、覚醒した父ちゃんはあっさり全員射殺してボス対決に勝利。これはさすがに…ねえ? なんでしょう、色々としがらみあったんですかね。

 

あと息子は成長期思春期においてかなり苦労はしたんだろうし、人として信頼できないとか尊敬できないとか色々あるのを斟酌しても、あの息子の恩知らずっぷりが半端ないw なんですかあの態度はw 過去に苦しめられた描写が殆ど無い為、単なる不義理な男にしか見えなかったのはどうなのかな、と。あまりの不義理っぷりに観客が心情的に親父を応援する気持ちが強くなるので、好意的に考えればそれを狙ったのかもしれませんね。いや、ないな。ないない。

 

とりあえずグダグダ言ってますが、何も考えずに観たら普通に面白いアクション映画だと思いますよ。せっかくのNYが舞台にしてるのにあまりNY感がないのももったいない気はしましたが。MSGとレンジャーズぐらいでしたかね。そこでレンジャーズをチョイスしたセンスは渋い。VC。