タイラント日記

映画や小説について書きたくなった時だけ書きます

美味しい映画は腹が減る:【シェフ 三ツ星フードトラック始めました】

小説のどんなに優れた表現よりも映画が威力を発揮するシーン。その一つが美味しい物を食べるシーンです。言葉を尽くし美味しさに関する表現の限りを尽くされても、それを美味しそうに食べる映画の1シーンを超えることはかなりの難問です。今作はまさにそんな映画(映像)の威力を感じさせてくれる作品です。

 

※以下結末までネタバレを含んでいますので未見の方はお控えください。

 

ベタなハッピーエンドが好きです。もちろん絶望的なラストだって余韻を残すラストだって謎を残すラストだってみんな大好きですが、たまにどうしようもなく僕の中の女子魂が叫ぶのです。ベタなハッピーエンドを見たい、と。そんなおっさんの欲望をきっちり満たしてくれた作品が今作でした。あらすじ的には「シェフの主人公がビジネスのしがらみに苦しんだりSNSでの晒し上げられたり元女房や子供との微妙な関係に苦労したりとかまあ色々あったけど回りに助けられて自分の原点を取り戻して幸せになってハッピー!」という話です。実に単純。エンディングでは評論家と和解するし、元女房と子供とも上手く関係を再構築するし、新たに自分の店をスタートさせる。文句無しのハッピーエンドです。この圧倒的なハッピーエンディングの前でああだこうだ言うのは野暮ってものですよw

 

主演・監督・脚本・製作ジョン・ファブロー。アイアンマンで一躍名をあげた監督です。元々は俳優だということで、おそらく超大作の監督をやってきて感じたであろう不満を、題材を料理に置き換えてガッツリぶちまけてます。金を出しているのは俺だから俺の言う事を全て聞け!というオーナー。料理が好きだということを免罪符にネットに好き勝手な悪口を書き散らす評論家。これを料理から映画に置き換えても全く違和感が無い。しかも直接登場人物に言わせるのではなく、観客にそうと思わせる見せ方がいやらしくて最高です。

 

この人は元々かなり小さい規模の映画からキャリアスタートしたそうなので、マスなやり方にも相当鬱憤がたまっていたのかもしれません。しかし、じゃあそういう文句を言う為だけにわざわざ映画を撮ったのか?といえばそれは全く違う訳で。この映画で監督が語りたかったことは、自分にとって最も大切な事は何なのかを考えることの重要性。お金は大事だし名声も欲しくて当然ですが、クリエイティブな職業を選んだ最初のモチベーションはなんだったのか?へのクローズアップのやり方に、監督自身のプライドも感じられました。

 

また、この作品は音にすごく気をつかってますよね。映画では美味しそうな「匂い」を感じることが出来ないので、その代わりに肉が焼ける音や食べる時の音をしっかりと聞かせることをかなり意識してます。これがもうホントに食欲そそってヤバいです。誇大ではなく観ているだけでよだれが出てしまいます。特にクロックムッシュキューバサンドを食べてるシーンはもう…!。「味」と「匂い」が無くても「映像」と「音」で美味しさを伝える。これも映画の力だと思います。

 

まあ、ここまでべた褒めしてるんですが、実際はこの映画に穴を探すのは簡単でしょう。脚本だってひねりが無いと言われればそうですし、キャラクターも展開に沿ってキープレイヤーが順々に現れる御都合主義かもしれません。更にあえていじわるを言えば「この映画自体がお金も名声も一度は手に入れた人間だから撮れたものでしょ?」という皮肉だって言えてしまいます。でも、だとしても、それを知ったからこそ言える、描けることだってあるじゃないか、という監督の心意気も確実にこの映画にはあるのです。苦しんだ経験を基に素敵なものを生み出す。創る。それは素晴らしいことだし、それでいいじゃないの。にんげんだもの。ふぁぶを。そういうことですよ。とにかく僕が言いたいのは「ちっちゃいこと言わずに素直に楽しもうぜ!」ってことですw 最初にも書きましたけど、そんな重箱の隅は野暮ってもんですから。素直に笑って素直に感動出来る。この映画にはそんなパワーがあるし、それをオススメしたい映画でした。超良かった。あとこの作品のジョン・レグイザモ最高すぎる。ドハマリ役でした。

なぜ原作ファンの僕が映画版寄生獣では満足出来なかったか:【寄生獣】

劇場版寄生獣を前後編共に観ましたが、邦画であれば充分な出来だと思いました。そもそもあの原作に込められたものを二時間程度の前後編で収める、なんてことは正面から立ち向かえば甚だ無理な話ですし、「髪型が違う」とか「ストーリーの修正は一切認めない」等の原作原理主義者でも無い限りは、厳しい条件の中でよくここまでまとめたなあという感じだと思います。ただ、これは連載から20年以上の時を経て遂に映像化された作品であり、なおかつ監督は「アフタヌーン連載当時から読んでいたファン」を公言しているとなれば、同じ寄生獣ファンとして極限まで高まった期待から観了後に感じた不満を述べても少しぐらい述べてもいいじゃない?というスタンスで書きました。乱筆ご容赦プリーズ。

 

※以下結末までネタバレを含んでいますので未見の方はお控えください。

 

あらすじはwikiに載っているので詳しくはそちらを参考にして下さい。この映画の主軸は「生物としての人類、人類としての母」という壮大なテーマを基に描かれているそうです。そしてテーマに沿う形でストーリー・設定の改変や登場人物の削減等が行われているそうですが、この映画で気になったのは大きく分けると下記五つになります。

 

その1:新一とミギーについて

最初こそ片言ですが、すぐに感情豊かな表現を行うようになるミギーにまず違和感。ボディランゲージも大きくまさに役者のように、人間のように絶望的な気持ちを語るミギー。あれ?ミギーって人間の感情を理解出来ない別の生物なんですよね?という感じ。ゆえに新一の「お前はいつまでたってもミギーだな」という台詞もイマイチ響かない。ミギーの感情に対しての描写は、広川の演説を聞いて寄生生物達の未来を想像したシーンでも気になりました。原作でも興奮してぐねぐねになりますが、あくまでも知的好奇心からくる研究者的興奮であったはず。しかしこの映画ではどう見ても普通にテンションが大きく上がった人間のそれ。原作者である岩明均は映画化において「ミギーのユーモア性を忘れない」という注文をつけたそうだけど、動きや喋りでユーモアを表現してしまえば只の芸人です。原作でのミギーは同じ日本語で同じ話題を喋っているのに、まるで違うことを話しているかのような相互不理解というか違和感の塊というか、漫才におけるすれ違いや勘違いネタのようなユーモアさだった気がします。

 

また新一があまりにもあっさりとミギーの存在を受入れてしまっている様にしか見えないところも違和感が強かったです。ミギーの存在がばれることを警戒している様に見えないし、ミギーも口では警戒を促しますが本気で警戒してるとは思えない。多くの警官や一般人の注視の中でも右手を不自然に構える、里美にミギーの存在をあっさりとばらしてしまう、倉森にミギーがばれた時も動揺もせずあっさりしている等、引っかかるシーンが多すぎました。

 

その2:登場人物・エピソードの削除・改変が正直イマイチ

映画全体の時間短縮の為という理屈は分かりますが、どうもエピソードの端折りかたや改変がツボを外していた様に感じました。例えば新一父はともかく原作で人気だったジョーや加奈が存在ごと削除。このため原作で存在した「加奈を殺され我を忘れた新一が自らの手で寄生生物の心臓をぶち抜く」シーンや、「母親を殺した寄生生物を倒す為に急ぐ新一が高い壁を垂直ジャンプで飛び越える」シーンも無くなっています。この削除自体は否定しませんが、代替えとなるシーンがうーん?という感じです。動きとして新一が寄生生物の心臓をぶち抜く、というシーンがありましたが、原作での「それまで争いは出来るだけ避けていた新一が、加奈を殺された激情と怒りで自ら人間部分である心臓への攻撃を行う」という意味付けが無くなった為、脈絡もなく新一が強いだけにしか見えません。「身体に混じったミギーの因子により徐々に新一が好戦的になっていく」という要素をまとめてあるのだとは思いますが、正直僕にはただただ好戦的であるようにしか見えませんでした。

 

他にも原作で屈指の人気シーンである、母親のボディを奪った寄生生物との対決で右手の火傷を見て新一が攻撃を止めてしまうシーン。これも改変されました。新一が攻撃を止めてしまうのではなく、パラサイトが母親の顔に変わって攻撃を止める、という寄生生物らしさのクローズアップと、それによって出来たスキを突こうとした寄生生物の攻撃を、火傷のある右手(新一の母の象徴)が邪魔するシーンへ変更されてます。そしてこれがぶっちゃけ分かりづらい。ジョーがいなくなったことで変える必要が出たことは理解しますが、結局この改変によって新一は「母親殺し」を現実的におこなってしまいます。つまり原作よりも新一のトラウマは強化されているのに、後編での田宮良子との解決シーンが実に不完全なせいでカタルシスが全然足りません。結果的にこの改変は失敗としか思えませんでした。

 

その3:田宮良子はどうしたんですか?

監督の意向なのか役者の意向なのかは分かりませんが、田宮良子は正直失敗だと思うシーンが多すぎた。まず寄生したボディの本来の母親が一瞬でパラサイトであることを見抜くシーン。この後田宮良子は母性への興味を強くしていきますが、なぜかここに父親をわざわざ追加しています。母性をクローズアップしているのにあえて父親を追加。このせいで本題がぼけてる気がします。

 

前編ラストで田宮良子が後藤に「頭を奪った時に来た命令」を聞く改変も正直意味が分かりません。水族館のシーンで田宮良子がなんの為に我々は生まれたのか…という自己問答のシーンを入れているので、表だった矛盾になっていないのかもしれませんが、あれはせめて人間である広川が後藤に聞くべきだったと思います。田宮良子が聞く事で「この種を食い殺せ」は寄生生物全体への命令なのか、後藤だけへの命令なのかが分からなくなってしまいました。大事な主題に関わる部分がぼやけるのはどうかと思います。

 

また、完結編で見せた赤ちゃんに対して微笑みが浮かんでしまうシーン。警察から銃撃を受けた際に見せた赤ちゃんを守る母性に繋がる大事なシーンですが、人間同士のドラマではなく人間と寄生生物とのドラマであることを考えればやや陳腐かな?という気はしました。しかし何よりも肝心な新一の母親の顔を真似たシーンの削除。これは完全に失敗だと思います。新一のトラウマである母を直接殺してしまった罪悪感への救済(原作では胸の穴を塞ぐ相手に会う形だった)。それは田宮良子が見せた「母が子を守る母性」でもあるのに、この映画では母親の火傷がある右手が新一を救ってくれたシーンのオーバーラップだけ。どう考えても新一の母の顔になった田宮良子による命を賭けた子守り、という分かりやすさに比べてインパクトが薄いことは否めません。なぜこんな改変をしたのかが本当に不可解です。

 

その4:寄生生物の強さの違いが不明瞭すぎる

これは前編からも少し気になっていました。完結編で分かりやすいのが田宮良子vs三人の寄生生物です。このシーンにおいて、なぜ田宮良子が勝てたのかの説明が全く不十分です。原作ではしっかりとして裏付けをもった罠を仕掛けることで、田宮良子の知能と強さが際立つシーンですが、この映画では単なる騙し討ちでしかなく、田宮良子が強いというより三人が間抜けにしか見えません。

 

最強生物後藤(三木)に関しても同じです。まず三木と後藤の違いが説明不足で分かり辛い。意識の統合についての下りは、細かな説明より分かりやすさを選んだであろう改変であり、これに問題はないのですが、三木に新一が勝つシーンで「意識を統合しきれないがゆえの攻撃の不具合」という弱点が分かり辛いです。その為に映画では新一は思いつきで突っ込み唐突に勝ったようにしか見えません。せめて誰が観ても分かる新一の決定的な敗北機(例えば三木の前で転んでしまう等)をやった上で、三木が仕留め損なえば弱点が一目で分かる形に出来たのではないでしょうか。

 

その後は後藤のターンに入りますが、後藤とは「田宮良子が実験によって生み出した寄生生物の集合体であり、その為に個体が持つ人間への憎しみが増幅されてしまった戦闘マシーン」という大事な説明が抜けています。後藤が新一を執拗に狙う理由付けも薄いので、市役所で虐殺を行った後いきなり新一を追いかける理由付けも薄い。更に原作では一度敗北した後で腕に残ったミギーの細胞を見て新一は「ミギーが生きている可能性」に思い当たります。しかし映画では細胞が残っているせいで「後藤に居場所を察知されてしまう可能性」にすり替えられてしまいました。この為、闘いのなかでミギーが新一へ戻ってくるターニングポイントが、原作未読の観客にとっては唐突に映ったかもしれません。更に新一が後藤を倒したクライマックスも特に何の意図も戦略もなく拾った棒を突き刺しただけにしか見えず唐突さは否めません。なぜ最強生物である後藤が倒せたのかの説明不足が続いたことで、重要なシーンにおけるカタルシスが全くと言っていいほどありませんでした。

 

その5:浦上の扱いと物語のラスト

年齢制限がつくことは避けたいビジネス上の縛りは理解しますが、結局浦上のエピソードが女性一人を滅多刺しにするシーンぐらいしか無いので、イマイチ浦上がとんでもない凶悪犯である印象が薄い気がします。しかも浦上と新一が出会うシーンを端折ってしまった為、ラストの対決はあまりにも唐突にすぎる印象を否めません。モノローグも無いので新一は浅慮で飛び出してるようにしか見えないし、浦上も里美に論破されていらつくようなそぶりを見せるごく普通の(?)犯罪者にしか見えませんでした。最後も明確に倒されている浦上が描写されないので「で?浦上はちゃんと倒せたの?」という疑問が浮かび、会話に集中出来ずムズムズしました。

 

映画のラストシーンはミギー・新一・里美の「寄生生物と人間の間にある希望(橋渡し)とその可能性」をクローズアップしていたとは思うのですが、今まで書いた問題点が積み重なって全く生きてないなという印象です。少なくとも前編で無感情なミギーの描写がもっと増やせば、ラストで人間を少し理解したミギーとの対比が際立ったのではないか、と思います。里美がミギーに対して理解を見せるのはまあ良いとして、正直右手に目とか出しちゃうんじゃないかとヒヤヒヤしてました。それだけはやってくれるなと願い、ある意味一番ドキドキしましたw

 

まあずらずらっと書くとこんな感じですね。ちゃんと推敲とかしてないのでちょっとおかしなところもあるかもしれませんが、寄生獣ファンゆえの暴走ということでご勘弁を。しかし文句ばっかりでは無粋ですので、この映画で個人的に良いなあと思った部分を簡単ではありますが書いて終わります。

 

おまけ:ここは良かったぜ!というところ

浦上(新井浩文)が登場シーンで見せたニヤニヤからの三白眼で睨むとこは最高でしたね。浦上の不遜さと本性を短い時間で観客に叩き込む良いシーンです。島田を演じた東出昌大は、その溢れ出る良い人オーラのせいでどんな役でも東出昌大にしか見えないと思っていたのですが、今作では逆にそれがハマってたと思います。不気味さが良かった。そして北村一輝の演説シーン!これは素晴らしすぎました。この映画における数少ない文句無しの鳥肌シーンです。ここを予告編で出してしまうところが逆に今の邦画がおかれている状況の厳しさを感じさせますね。また里美(橋本愛)のラブシーンは生々しさを重視して撮ったそうですが、これが正直良かったです。やはり死を扱う以上は性(生)の描写は重要ですし、これは評価が上がると思います。そして最後はピエール瀧が演じた三木。あの笑い方は真似したくなりますね。ていうかしてますけどw この映画で得た一番の収穫かもしれません。ハハッ!

妄想と現実の脆く儚い境界線:【バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】

※結末までネタバレしているので、映画未見の方は読まないほうがいいです

 

映画のあらすじはこんな感じ。主人公トムソン(マイケル・キートン)は落ちぶれかけ、再びの成功とそれがもたらす収入をなにより必要としている。しかし彼に世間が望む大ヒット映画バードマンの続編ではなく、古典の名作でブロードウェイへ挑戦する。舞台を成功させようと必死に取り組む彼だが、彼女とうまくいかず、娘や別れた女房からは尊敬を受けられず、役者達には振り回され、批評家を敵に回し、大衆には時代遅れの笑い者にされてしまう。追いつめられた彼の耳元で囁くバードマンの妄想はその存在感を加速的に強めていく。そして遂に彼は覚醒し、自分の成すべきことに気づいた。劇場に戻り舞台で鬼気迫る演技を見せた後、ラストシーンに本物の銃で自らの頭を撃ち抜く。しかしその後病室で目覚めた彼は、頭を撃ち抜いたはずの弾丸が実は鼻を吹き飛ばしただけで自分が生き延びたことを知る。だが彼をとりまく状況は逆転していた。彼が死を賭した舞台は「無知がもたらした奇跡」として絶賛されている。伝説となる舞台を作り上げたことで今後は仕事のオファーも殺到するだろう。しかし彼は病室の窓から再び空へと羽ばたいていく。病室の窓から飛び立った父親を娘が嬉々とした表情で見上げてエンディング。

 

では僕なりの解釈です。この物語のテーマは愛です。主人公は今の恋人との恋愛、別れた女房へ残る親愛の情、薬物治療施設に入っても中毒から抜け出せない娘との家族愛、そのどれも今一つ上手くいかず足掻いています。劇中劇での「僕らはみんな愛の初心者みたいに見える」という台詞そのもののように、愛の初心者に見えてしまう男。それがこの物語の主人公トムソンです。しかしこの物語で最もクローズアップされているのは自己愛(エゴ)です。舞台で演じるには不向きであるにも関わらず、自らが役者を志すきっかけとなった著者の作品をあえて選ぶプライド。一度は名を成した自分が挑戦するべきは崇高なものでなくてはならないという驕り。金が必要なのに「大事なのは金ではない」と嘯く欺瞞。「意義のあることに自分は今なお挑戦し続けているのだ」という自分につく噓。冒頭だけでも主人公トムソンにはこれだけのエゴが感じられます。

 

更に彼を取り巻くエゴの描かれ方も生々しい。技術は確かだが演劇だけが全ての人格破綻者のような役者であるシャイナー(エドワード・ノートン)。チャンスを掴めないまま年齢を重ねても、いまだ夢にしがみつき踠き続ける女優トールマン(ナオミ・ワッツ)。街角でシェイクスピアをそらんじて承認欲求をさらけだすストリートパフォーマー。彼らの独善的に振る舞う姿は役者という生き物のエゴの象徴です。更に劇中で時代についていけないトムソンが、その失態をSNSやネット等のバイラルメディアで笑い者にされるシーンがありますが、あれは現代の大衆達のエゴの姿でしょう。演劇界(ブロードウェイ)という聖域を守る為、観る前からトムソンの舞台を貶めようとするタビサは批評家のエゴの象徴です。こうやってこの作品ではエンターテイメントに関わる登場人物達のエゴを容赦なく描きだしています

 

そもそも他者のエゴはアンコントローラブルなもので、それに対するトムソンの恐怖はエンターテイメントに関わるクリエイター達にとって根源的なものなのでしょう。舞台上ラストシーンでトムソンは自分の頭を撃ち抜く前に、自分を振り回した役者のエゴの象徴であるシャイナーを(あくまでフリだけですが)撃ち抜きます。次に観客席の中に見つけた自分の作品をゴミ箱へ叩き込もうとする批評家達の象徴であるタビサも(こちらもフリだけですが)撃ち抜きます。そして最後に製作者である自らの頭を本当の弾丸で撃ち抜きます。これはクリエイターを苦しめる全てのエゴを撃ち抜いた、ということでしょう。観客のスタンディングオベーションの中、足早に立ち去っていくタビサの後ろ姿は望む勝利の形です。このシーンはもしかしたら「劇の中でぐらいは俺達がお前らを殺してもいいだろう?」という皮肉かもしれないと思いました。

 

で、ここから物語の核心です。この映画で一番気になるトムソンの超能力ですが、結論から言えば超能力はトムソンの妄想だと思います。超能力が妄想であることは、基本的に超能力を使うのが彼一人のシーンだけで、他者がいるシーンでは発揮されていないことからも分かります。物語後半で空を自由に飛び回ったトムソンが空から劇場に舞い降りるシーンが出てきますが、通行人は誰も彼に注目していません。それどころか彼を乗せてきたであろうタクシーの運転手が、彼を追いかけて運賃を請求するシーンすらスクリーンに映されています。僕は超能力は「彼が今もって自らが演じた過去の大ヒット作のキャラクターであるバードマン(とそこで得た栄光)から脱却出来ていない」ことの示唆だと受け取りました。元々役に没頭し、成りきり、思いこんで演技するタイプの役者なのかもしれません。つまりこの物語の主人公はトムソンですが、正確には「バードマンがトムソンという男の役を演じ続けている物語」です。

 

つまり、この映画自体がバードマン(トムソン)の作り上げたストーリーであり、同時に現実の【バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】という映画なのだと思います。

 

空想と現実の境目がはっきりしないような作りですが、実はきっちりと分離しています。舞台のクライマックスに向かうシーンでBGMを奏でていたのは、物語冒頭に道端で金を恵んだストリートミュージシャンです。ここで観客は今まで自分達が聞いていたBGM自体が、トムソンが頭の中で鳴らしているBGMだったことに気づかされます。僕らは最初からトムソンが作りあげ演じている映像を見させられていた、という事です。ですから、本来は「舞台上で頭を撃ち抜いて死ぬ」ところまでが【バードマン】の物語です。

 

しかし「現実の映画」という、巨大エンターテイメントビジネスがこの結末を許しません。自殺シーンの後、それまで延々とワンカットで映され続けた本作で初めて暗転し、舞台が病室へと移ります。そして奇しくもバードマンのような外見になって生き延びたトムソンが、病室の窓から空へ羽ばたくエンディングが改めて描かれるのですが、このシーンはあきらかに付け足しだと思います。彼の前に再び現れたバードマン(の妄想)に向かってFUCKと呟くシーンがありますが、これは付け足されたこのシーンそのものへのFUCKなのではないでしょうか。空へ羽ばたいたバードマンを嬉々として見上げる娘は観客(大衆)のメタファーであり、これがあなた達が映画に求めるエンターテイメントなエンディングでしょ?という製作者の皮肉なのではないでしょうか。病室で読み上げられる新聞の「無知がもたらした奇跡」というタイトルと同じ見出しも一種のサジェスチョンだと思いました。バードマンの物語に付け足されたエンディング。つまりそれこそこの映画における【あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】の部分の物語である、と。

 

この映画は2つのパートに分かれていて、トムソンの作り上げた【バードマン】のパートでは映画の登場人物達のエゴを、【あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】のパートではこの映画を観る大衆達のエゴをクローズアップした。そういう事なのかな、と僕は思っています。

 

だからこの映画は映画鑑賞後の僕らに、大衆としての役を振り当てています。明確な答えはなく、いくらでも自由解釈が効く。観終わった後、僕らはああでもないこうでもないと物語についての解釈をぶつけあいます。現実で。ネットで。SNSで。僕が今こうしてネット上に書いているようにです。それらはバイラルメディアとなってこの作品をヒット作へ押し上げるでしょう。もう一度映画館に足を運ぶ人も出るかもしれません。それらも含めてこの作品の一部であり、もしかしたらこの脚本のトゥルーエンディングなのかもしれないな、と思いました。実際ここまで考えられた脚本だとしたら、これは凄いとしか言いようがありません。実際素晴らしい映画だったので、僕はもう完全降伏です。参りました。

 

で、おまけというか、これはもう完全に僕の妄想というか、そうなのかな?と気になっただけなのですが。それはこの物語で重要な小道具となったレイモンドカーヴァーについてです。彼の書く物語はミニマリズムを特徴としており、市井の人々のごく普遍的な日常を切りとって書かれます。もちろんバードマンは市井の人々の物語ではなく普遍的な日常でもありませんが、それは観客である僕らにとってのことであって、映画に関わるクリエイター達にとっては、このエゴイズムにまみれた日常こそが普遍的な日常なのでしょう。

そんな彼の書いた短編で「象」というものがあるのですが、僕はこの短編こそ【バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】の元ネタなような気がしています。内容の詳細は省きますが、非常に通じるものを感じるのです。この映画の結末がどうであるかは人それぞれの解釈で変わりますが、もし僕が思うとおり「象」が元ネタだったら、この映画はハッピーエンディングのはずです。だから、そうだったらいいな、と思っています。

test

「なんか、こういうのを見てるとさ、一般の人たちがみんな評論家になっていくみたいで、どの情報を信じたら良いのか、どんどんわからなくなるよね」

 

洋子は急に真面目な話をする。

 

「このまま、日本中の人がホームページを開設したりなんかしたら、もう情報が多過ぎて、結局は役に立たなくなっちゃうんじゃないかしら」

 

「たぶん、そうなるわ」

 

萌絵は言う。

 

「今みたいに一部の人がやっている間は価値があるけれど。だんだん、自分の日記とか、独り言みたいなことまで全部公開されて、つまり、みんながおしゃべり状態で、聴き手がいなくなっちゃうんだよね。価値のある情報より、おしゃべりさんの情報の方が優先されるんだから、しかたがないわ。でも、それはそれで、価値はないんだって初めから割り切れば、面白いんじゃないかしら。そんな気もする」

 

「カラオケみたいなもんね」 

 「幻惑の死と使途」 森博嗣:著 講談社ノベルス 1997年10月発行