タイラント日記

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なぜ原作ファンの僕が映画版寄生獣では満足出来なかったか:【寄生獣】

劇場版寄生獣を前後編共に観ましたが、邦画であれば充分な出来だと思いました。そもそもあの原作に込められたものを二時間程度の前後編で収める、なんてことは正面から立ち向かえば甚だ無理な話ですし、「髪型が違う」とか「ストーリーの修正は一切認めない」等の原作原理主義者でも無い限りは、厳しい条件の中でよくここまでまとめたなあという感じだと思います。ただ、これは連載から20年以上の時を経て遂に映像化された作品であり、なおかつ監督は「アフタヌーン連載当時から読んでいたファン」を公言しているとなれば、同じ寄生獣ファンとして極限まで高まった期待から観了後に感じた不満を述べても少しぐらい述べてもいいじゃない?というスタンスで書きました。乱筆ご容赦プリーズ。

 

※以下結末までネタバレを含んでいますので未見の方はお控えください。

 

あらすじはwikiに載っているので詳しくはそちらを参考にして下さい。この映画の主軸は「生物としての人類、人類としての母」という壮大なテーマを基に描かれているそうです。そしてテーマに沿う形でストーリー・設定の改変や登場人物の削減等が行われているそうですが、この映画で気になったのは大きく分けると下記五つになります。

 

その1:新一とミギーについて

最初こそ片言ですが、すぐに感情豊かな表現を行うようになるミギーにまず違和感。ボディランゲージも大きくまさに役者のように、人間のように絶望的な気持ちを語るミギー。あれ?ミギーって人間の感情を理解出来ない別の生物なんですよね?という感じ。ゆえに新一の「お前はいつまでたってもミギーだな」という台詞もイマイチ響かない。ミギーの感情に対しての描写は、広川の演説を聞いて寄生生物達の未来を想像したシーンでも気になりました。原作でも興奮してぐねぐねになりますが、あくまでも知的好奇心からくる研究者的興奮であったはず。しかしこの映画ではどう見ても普通にテンションが大きく上がった人間のそれ。原作者である岩明均は映画化において「ミギーのユーモア性を忘れない」という注文をつけたそうだけど、動きや喋りでユーモアを表現してしまえば只の芸人です。原作でのミギーは同じ日本語で同じ話題を喋っているのに、まるで違うことを話しているかのような相互不理解というか違和感の塊というか、漫才におけるすれ違いや勘違いネタのようなユーモアさだった気がします。

 

また新一があまりにもあっさりとミギーの存在を受入れてしまっている様にしか見えないところも違和感が強かったです。ミギーの存在がばれることを警戒している様に見えないし、ミギーも口では警戒を促しますが本気で警戒してるとは思えない。多くの警官や一般人の注視の中でも右手を不自然に構える、里美にミギーの存在をあっさりとばらしてしまう、倉森にミギーがばれた時も動揺もせずあっさりしている等、引っかかるシーンが多すぎました。

 

その2:登場人物・エピソードの削除・改変が正直イマイチ

映画全体の時間短縮の為という理屈は分かりますが、どうもエピソードの端折りかたや改変がツボを外していた様に感じました。例えば新一父はともかく原作で人気だったジョーや加奈が存在ごと削除。このため原作で存在した「加奈を殺され我を忘れた新一が自らの手で寄生生物の心臓をぶち抜く」シーンや、「母親を殺した寄生生物を倒す為に急ぐ新一が高い壁を垂直ジャンプで飛び越える」シーンも無くなっています。この削除自体は否定しませんが、代替えとなるシーンがうーん?という感じです。動きとして新一が寄生生物の心臓をぶち抜く、というシーンがありましたが、原作での「それまで争いは出来るだけ避けていた新一が、加奈を殺された激情と怒りで自ら人間部分である心臓への攻撃を行う」という意味付けが無くなった為、脈絡もなく新一が強いだけにしか見えません。「身体に混じったミギーの因子により徐々に新一が好戦的になっていく」という要素をまとめてあるのだとは思いますが、正直僕にはただただ好戦的であるようにしか見えませんでした。

 

他にも原作で屈指の人気シーンである、母親のボディを奪った寄生生物との対決で右手の火傷を見て新一が攻撃を止めてしまうシーン。これも改変されました。新一が攻撃を止めてしまうのではなく、パラサイトが母親の顔に変わって攻撃を止める、という寄生生物らしさのクローズアップと、それによって出来たスキを突こうとした寄生生物の攻撃を、火傷のある右手(新一の母の象徴)が邪魔するシーンへ変更されてます。そしてこれがぶっちゃけ分かりづらい。ジョーがいなくなったことで変える必要が出たことは理解しますが、結局この改変によって新一は「母親殺し」を現実的におこなってしまいます。つまり原作よりも新一のトラウマは強化されているのに、後編での田宮良子との解決シーンが実に不完全なせいでカタルシスが全然足りません。結果的にこの改変は失敗としか思えませんでした。

 

その3:田宮良子はどうしたんですか?

監督の意向なのか役者の意向なのかは分かりませんが、田宮良子は正直失敗だと思うシーンが多すぎた。まず寄生したボディの本来の母親が一瞬でパラサイトであることを見抜くシーン。この後田宮良子は母性への興味を強くしていきますが、なぜかここに父親をわざわざ追加しています。母性をクローズアップしているのにあえて父親を追加。このせいで本題がぼけてる気がします。

 

前編ラストで田宮良子が後藤に「頭を奪った時に来た命令」を聞く改変も正直意味が分かりません。水族館のシーンで田宮良子がなんの為に我々は生まれたのか…という自己問答のシーンを入れているので、表だった矛盾になっていないのかもしれませんが、あれはせめて人間である広川が後藤に聞くべきだったと思います。田宮良子が聞く事で「この種を食い殺せ」は寄生生物全体への命令なのか、後藤だけへの命令なのかが分からなくなってしまいました。大事な主題に関わる部分がぼやけるのはどうかと思います。

 

また、完結編で見せた赤ちゃんに対して微笑みが浮かんでしまうシーン。警察から銃撃を受けた際に見せた赤ちゃんを守る母性に繋がる大事なシーンですが、人間同士のドラマではなく人間と寄生生物とのドラマであることを考えればやや陳腐かな?という気はしました。しかし何よりも肝心な新一の母親の顔を真似たシーンの削除。これは完全に失敗だと思います。新一のトラウマである母を直接殺してしまった罪悪感への救済(原作では胸の穴を塞ぐ相手に会う形だった)。それは田宮良子が見せた「母が子を守る母性」でもあるのに、この映画では母親の火傷がある右手が新一を救ってくれたシーンのオーバーラップだけ。どう考えても新一の母の顔になった田宮良子による命を賭けた子守り、という分かりやすさに比べてインパクトが薄いことは否めません。なぜこんな改変をしたのかが本当に不可解です。

 

その4:寄生生物の強さの違いが不明瞭すぎる

これは前編からも少し気になっていました。完結編で分かりやすいのが田宮良子vs三人の寄生生物です。このシーンにおいて、なぜ田宮良子が勝てたのかの説明が全く不十分です。原作ではしっかりとして裏付けをもった罠を仕掛けることで、田宮良子の知能と強さが際立つシーンですが、この映画では単なる騙し討ちでしかなく、田宮良子が強いというより三人が間抜けにしか見えません。

 

最強生物後藤(三木)に関しても同じです。まず三木と後藤の違いが説明不足で分かり辛い。意識の統合についての下りは、細かな説明より分かりやすさを選んだであろう改変であり、これに問題はないのですが、三木に新一が勝つシーンで「意識を統合しきれないがゆえの攻撃の不具合」という弱点が分かり辛いです。その為に映画では新一は思いつきで突っ込み唐突に勝ったようにしか見えません。せめて誰が観ても分かる新一の決定的な敗北機(例えば三木の前で転んでしまう等)をやった上で、三木が仕留め損なえば弱点が一目で分かる形に出来たのではないでしょうか。

 

その後は後藤のターンに入りますが、後藤とは「田宮良子が実験によって生み出した寄生生物の集合体であり、その為に個体が持つ人間への憎しみが増幅されてしまった戦闘マシーン」という大事な説明が抜けています。後藤が新一を執拗に狙う理由付けも薄いので、市役所で虐殺を行った後いきなり新一を追いかける理由付けも薄い。更に原作では一度敗北した後で腕に残ったミギーの細胞を見て新一は「ミギーが生きている可能性」に思い当たります。しかし映画では細胞が残っているせいで「後藤に居場所を察知されてしまう可能性」にすり替えられてしまいました。この為、闘いのなかでミギーが新一へ戻ってくるターニングポイントが、原作未読の観客にとっては唐突に映ったかもしれません。更に新一が後藤を倒したクライマックスも特に何の意図も戦略もなく拾った棒を突き刺しただけにしか見えず唐突さは否めません。なぜ最強生物である後藤が倒せたのかの説明不足が続いたことで、重要なシーンにおけるカタルシスが全くと言っていいほどありませんでした。

 

その5:浦上の扱いと物語のラスト

年齢制限がつくことは避けたいビジネス上の縛りは理解しますが、結局浦上のエピソードが女性一人を滅多刺しにするシーンぐらいしか無いので、イマイチ浦上がとんでもない凶悪犯である印象が薄い気がします。しかも浦上と新一が出会うシーンを端折ってしまった為、ラストの対決はあまりにも唐突にすぎる印象を否めません。モノローグも無いので新一は浅慮で飛び出してるようにしか見えないし、浦上も里美に論破されていらつくようなそぶりを見せるごく普通の(?)犯罪者にしか見えませんでした。最後も明確に倒されている浦上が描写されないので「で?浦上はちゃんと倒せたの?」という疑問が浮かび、会話に集中出来ずムズムズしました。

 

映画のラストシーンはミギー・新一・里美の「寄生生物と人間の間にある希望(橋渡し)とその可能性」をクローズアップしていたとは思うのですが、今まで書いた問題点が積み重なって全く生きてないなという印象です。少なくとも前編で無感情なミギーの描写がもっと増やせば、ラストで人間を少し理解したミギーとの対比が際立ったのではないか、と思います。里美がミギーに対して理解を見せるのはまあ良いとして、正直右手に目とか出しちゃうんじゃないかとヒヤヒヤしてました。それだけはやってくれるなと願い、ある意味一番ドキドキしましたw

 

まあずらずらっと書くとこんな感じですね。ちゃんと推敲とかしてないのでちょっとおかしなところもあるかもしれませんが、寄生獣ファンゆえの暴走ということでご勘弁を。しかし文句ばっかりでは無粋ですので、この映画で個人的に良いなあと思った部分を簡単ではありますが書いて終わります。

 

おまけ:ここは良かったぜ!というところ

浦上(新井浩文)が登場シーンで見せたニヤニヤからの三白眼で睨むとこは最高でしたね。浦上の不遜さと本性を短い時間で観客に叩き込む良いシーンです。島田を演じた東出昌大は、その溢れ出る良い人オーラのせいでどんな役でも東出昌大にしか見えないと思っていたのですが、今作では逆にそれがハマってたと思います。不気味さが良かった。そして北村一輝の演説シーン!これは素晴らしすぎました。この映画における数少ない文句無しの鳥肌シーンです。ここを予告編で出してしまうところが逆に今の邦画がおかれている状況の厳しさを感じさせますね。また里美(橋本愛)のラブシーンは生々しさを重視して撮ったそうですが、これが正直良かったです。やはり死を扱う以上は性(生)の描写は重要ですし、これは評価が上がると思います。そして最後はピエール瀧が演じた三木。あの笑い方は真似したくなりますね。ていうかしてますけどw この映画で得た一番の収穫かもしれません。ハハッ!