タイラント日記

映画や小説について書きたくなった時だけ書きます

妄想と現実の脆く儚い境界線:【バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】

※結末までネタバレしているので、映画未見の方は読まないほうがいいです

 

映画のあらすじはこんな感じ。主人公トムソン(マイケル・キートン)は落ちぶれかけ、再びの成功とそれがもたらす収入をなにより必要としている。しかし彼に世間が望む大ヒット映画バードマンの続編ではなく、古典の名作でブロードウェイへ挑戦する。舞台を成功させようと必死に取り組む彼だが、彼女とうまくいかず、娘や別れた女房からは尊敬を受けられず、役者達には振り回され、批評家を敵に回し、大衆には時代遅れの笑い者にされてしまう。追いつめられた彼の耳元で囁くバードマンの妄想はその存在感を加速的に強めていく。そして遂に彼は覚醒し、自分の成すべきことに気づいた。劇場に戻り舞台で鬼気迫る演技を見せた後、ラストシーンに本物の銃で自らの頭を撃ち抜く。しかしその後病室で目覚めた彼は、頭を撃ち抜いたはずの弾丸が実は鼻を吹き飛ばしただけで自分が生き延びたことを知る。だが彼をとりまく状況は逆転していた。彼が死を賭した舞台は「無知がもたらした奇跡」として絶賛されている。伝説となる舞台を作り上げたことで今後は仕事のオファーも殺到するだろう。しかし彼は病室の窓から再び空へと羽ばたいていく。病室の窓から飛び立った父親を娘が嬉々とした表情で見上げてエンディング。

 

では僕なりの解釈です。この物語のテーマは愛です。主人公は今の恋人との恋愛、別れた女房へ残る親愛の情、薬物治療施設に入っても中毒から抜け出せない娘との家族愛、そのどれも今一つ上手くいかず足掻いています。劇中劇での「僕らはみんな愛の初心者みたいに見える」という台詞そのもののように、愛の初心者に見えてしまう男。それがこの物語の主人公トムソンです。しかしこの物語で最もクローズアップされているのは自己愛(エゴ)です。舞台で演じるには不向きであるにも関わらず、自らが役者を志すきっかけとなった著者の作品をあえて選ぶプライド。一度は名を成した自分が挑戦するべきは崇高なものでなくてはならないという驕り。金が必要なのに「大事なのは金ではない」と嘯く欺瞞。「意義のあることに自分は今なお挑戦し続けているのだ」という自分につく噓。冒頭だけでも主人公トムソンにはこれだけのエゴが感じられます。

 

更に彼を取り巻くエゴの描かれ方も生々しい。技術は確かだが演劇だけが全ての人格破綻者のような役者であるシャイナー(エドワード・ノートン)。チャンスを掴めないまま年齢を重ねても、いまだ夢にしがみつき踠き続ける女優トールマン(ナオミ・ワッツ)。街角でシェイクスピアをそらんじて承認欲求をさらけだすストリートパフォーマー。彼らの独善的に振る舞う姿は役者という生き物のエゴの象徴です。更に劇中で時代についていけないトムソンが、その失態をSNSやネット等のバイラルメディアで笑い者にされるシーンがありますが、あれは現代の大衆達のエゴの姿でしょう。演劇界(ブロードウェイ)という聖域を守る為、観る前からトムソンの舞台を貶めようとするタビサは批評家のエゴの象徴です。こうやってこの作品ではエンターテイメントに関わる登場人物達のエゴを容赦なく描きだしています

 

そもそも他者のエゴはアンコントローラブルなもので、それに対するトムソンの恐怖はエンターテイメントに関わるクリエイター達にとって根源的なものなのでしょう。舞台上ラストシーンでトムソンは自分の頭を撃ち抜く前に、自分を振り回した役者のエゴの象徴であるシャイナーを(あくまでフリだけですが)撃ち抜きます。次に観客席の中に見つけた自分の作品をゴミ箱へ叩き込もうとする批評家達の象徴であるタビサも(こちらもフリだけですが)撃ち抜きます。そして最後に製作者である自らの頭を本当の弾丸で撃ち抜きます。これはクリエイターを苦しめる全てのエゴを撃ち抜いた、ということでしょう。観客のスタンディングオベーションの中、足早に立ち去っていくタビサの後ろ姿は望む勝利の形です。このシーンはもしかしたら「劇の中でぐらいは俺達がお前らを殺してもいいだろう?」という皮肉かもしれないと思いました。

 

で、ここから物語の核心です。この映画で一番気になるトムソンの超能力ですが、結論から言えば超能力はトムソンの妄想だと思います。超能力が妄想であることは、基本的に超能力を使うのが彼一人のシーンだけで、他者がいるシーンでは発揮されていないことからも分かります。物語後半で空を自由に飛び回ったトムソンが空から劇場に舞い降りるシーンが出てきますが、通行人は誰も彼に注目していません。それどころか彼を乗せてきたであろうタクシーの運転手が、彼を追いかけて運賃を請求するシーンすらスクリーンに映されています。僕は超能力は「彼が今もって自らが演じた過去の大ヒット作のキャラクターであるバードマン(とそこで得た栄光)から脱却出来ていない」ことの示唆だと受け取りました。元々役に没頭し、成りきり、思いこんで演技するタイプの役者なのかもしれません。つまりこの物語の主人公はトムソンですが、正確には「バードマンがトムソンという男の役を演じ続けている物語」です。

 

つまり、この映画自体がバードマン(トムソン)の作り上げたストーリーであり、同時に現実の【バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】という映画なのだと思います。

 

空想と現実の境目がはっきりしないような作りですが、実はきっちりと分離しています。舞台のクライマックスに向かうシーンでBGMを奏でていたのは、物語冒頭に道端で金を恵んだストリートミュージシャンです。ここで観客は今まで自分達が聞いていたBGM自体が、トムソンが頭の中で鳴らしているBGMだったことに気づかされます。僕らは最初からトムソンが作りあげ演じている映像を見させられていた、という事です。ですから、本来は「舞台上で頭を撃ち抜いて死ぬ」ところまでが【バードマン】の物語です。

 

しかし「現実の映画」という、巨大エンターテイメントビジネスがこの結末を許しません。自殺シーンの後、それまで延々とワンカットで映され続けた本作で初めて暗転し、舞台が病室へと移ります。そして奇しくもバードマンのような外見になって生き延びたトムソンが、病室の窓から空へ羽ばたくエンディングが改めて描かれるのですが、このシーンはあきらかに付け足しだと思います。彼の前に再び現れたバードマン(の妄想)に向かってFUCKと呟くシーンがありますが、これは付け足されたこのシーンそのものへのFUCKなのではないでしょうか。空へ羽ばたいたバードマンを嬉々として見上げる娘は観客(大衆)のメタファーであり、これがあなた達が映画に求めるエンターテイメントなエンディングでしょ?という製作者の皮肉なのではないでしょうか。病室で読み上げられる新聞の「無知がもたらした奇跡」というタイトルと同じ見出しも一種のサジェスチョンだと思いました。バードマンの物語に付け足されたエンディング。つまりそれこそこの映画における【あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】の部分の物語である、と。

 

この映画は2つのパートに分かれていて、トムソンの作り上げた【バードマン】のパートでは映画の登場人物達のエゴを、【あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】のパートではこの映画を観る大衆達のエゴをクローズアップした。そういう事なのかな、と僕は思っています。

 

だからこの映画は映画鑑賞後の僕らに、大衆としての役を振り当てています。明確な答えはなく、いくらでも自由解釈が効く。観終わった後、僕らはああでもないこうでもないと物語についての解釈をぶつけあいます。現実で。ネットで。SNSで。僕が今こうしてネット上に書いているようにです。それらはバイラルメディアとなってこの作品をヒット作へ押し上げるでしょう。もう一度映画館に足を運ぶ人も出るかもしれません。それらも含めてこの作品の一部であり、もしかしたらこの脚本のトゥルーエンディングなのかもしれないな、と思いました。実際ここまで考えられた脚本だとしたら、これは凄いとしか言いようがありません。実際素晴らしい映画だったので、僕はもう完全降伏です。参りました。

 

で、おまけというか、これはもう完全に僕の妄想というか、そうなのかな?と気になっただけなのですが。それはこの物語で重要な小道具となったレイモンドカーヴァーについてです。彼の書く物語はミニマリズムを特徴としており、市井の人々のごく普遍的な日常を切りとって書かれます。もちろんバードマンは市井の人々の物語ではなく普遍的な日常でもありませんが、それは観客である僕らにとってのことであって、映画に関わるクリエイター達にとっては、このエゴイズムにまみれた日常こそが普遍的な日常なのでしょう。

そんな彼の書いた短編で「象」というものがあるのですが、僕はこの短編こそ【バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】の元ネタなような気がしています。内容の詳細は省きますが、非常に通じるものを感じるのです。この映画の結末がどうであるかは人それぞれの解釈で変わりますが、もし僕が思うとおり「象」が元ネタだったら、この映画はハッピーエンディングのはずです。だから、そうだったらいいな、と思っています。